今回は本の書評ではありません。あしからず。

「古典」について考察してみます。

みなさんは「古典」とは何?と問われたらどう答えますか?

国語辞典には、

1 古い時代に書かれた書物。当代・現代からみて、古い時代に属する書物。「鴎外や漱石も若者にとっては―なのである」

2 学問・芸術のある分野において、歴史的価値をもつとともに、後世の人の教養に資すると考えられるもの。多く、著述作品についていう。「国富論は経済学における―である」

3 芸能の世界で、近代に興った流派に対し、古い伝統に根ざしたもの。「―舞踊」

4 古くからの定め。古代の儀式や法式

と書かれてます。

なんとなく1番のような答えを持ってましたが、「知的生活の方法」を読んで、もう少し自分の中で「古典」というものを考えてみました。

この本で著者は「古典」を

世の中に古典とよばれる本がある。これは何度も何度も読み返され、時代を経ているうちに残った本である。(P.65)

と定義しています。例えば、シェイクスピアでいうと、彼が生きていた時代ではおそらく、比較的人気のある劇作家であったにすぎなかったかもしれない。しかし、2、300年経つと、他の劇作家の作品は廃れていっても、シェイクスピアだけは残っていった。つまり、何度も何度も多くの劇が上演されていったが、どんどん上映回数は減り、ついには忘れ去られていくような作品がある中でシェイクスピアだけが残っていった、このようなシェイクスピアの作品こそが「古典」だと言います。

一言で言うと、

繰り返し、見る(読む)に耐える作品かということに尽きると言っています。

渡部氏はまた、読書家というものに対してこんな考えをもっています。

あなたは繰りかえして読む本を何冊ぐらいもっているだろうか。それはどんな本だろうか。それがわかれば、あなたがどんな人かよくわかる。しかし、あなたの古典がないならば、あなたはいくら本を広く、多く読んでも私は読書家とは考えたくない。(P.67)

渡部氏は、世間一般で言われる「みんなの古典」を読めと言っているわけではありません。

自分の中で何度でも読みたいと思えるような「私の古典」を見つけよと言っています。私はまだ古典と言えるような本はほとんどありません。渡部氏のいう読書家にはなれていませんね。

また、渡部氏は「私の古典」がない人に対してこうアドバイスしています。

まず、二、三年前に読んでおもしろかったと思うものを片っぱしから読みなおしてみられるとよい。そしてなん冊か読みなおして、おもしろかったらそれだけをとっておき、また来年かさ来年に読みかえしてみるのである。そういつづければあなたの古典ができ、いつの間にか読書趣味が鋭敏になっており、本物の読書家の仲間に入っていることになるだろう。(P.68)

今回「古典」を考えなおさせられたのは↓この本です。前にも紹介しましたが、「私の古典」になるであろう本です。

知的生活の方法 (講談社現代新書 436)/渡部 昇一

¥756

Amazon.co.jp

みなさんは、「私の古典」をお持ちでしょうか?

長々とお読みいただきありがとうございます。

読書観の一助になればうれしいです。